谷川俊太郎さん
親しみやすい言葉による詩や翻訳、エッセーで知られ、戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日午後、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。喪主は長男で音楽家の賢作さん。
父は哲学者・谷川徹三。10代で詩作を始め、1952年、20歳の時に第1詩集「二十億光年の孤独」でみずみずしい言語感覚を持つ戦後詩の新人として注目された。
詩人の川崎洋さんと茨木のり子さんが創刊した詩誌「櫂」に参加。現代詩に限らず、絵本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上にわたって活躍した。「朝のリレー」など国語教科書に採用された詩も多く、幅広い年代の人々に愛読された。
鋭い感性を分かりやすい言葉で表現し、深い詩情と遠大な思想を込めた詩を発表する一方、朗読にも力を入れ、賢作さんと共に各地でコンサートを開いた。
海外での詩祭への参加、朗読会をはじめ、英語、中国語などに多くの詩集が翻訳されている。中国で文学賞も受けた。
詩集「日々の地図」で読売文学賞。他に中国・中坤国際詩歌賞や萩原朔太郎賞、詩歌文学館賞、鮎川信夫賞など受賞多数。
他の詩集に「六十二のソネット」「ことばあそびうた」「定義」。歌詞に「鉄腕アトム」や「月火水木金土日の歌」など。
翻訳作品は「マザー・グースのうた」の他、スヌーピーとチャーリー・ブラウンが人気の漫画「ピーナッツ」シリーズや絵本「スイミー」など。
◆―― 「国民詩人」にふさわしい
詩人の高橋睦郎さんの話 日本の詩人の中で「国民詩人」と呼ばれるのにふさわしいのは谷川俊太郎さんだけ。彼の詩はとても明晰なのに、奥には謎が残っている。「明るい闇」のようなものがある。谷川さんの詩の中心にあるのは「愛」だろう。それも本来あり得ないものとしての、不可能性に立脚した愛。それが彼の独自性だと思う。70年以上、第一線を走り続けた人。彼のような人が広く受け入れられたと思うと、日本という国も捨てたものじゃないと感じる。
◆―― 世界を肯定した詩人 言葉を考え抜いた谷川さん
13日に92歳で死去した谷川俊太郎さんは、日常の何げない言葉で詩を書いた。読者は共感したり、笑ったり、不思議に思ったり。その魅力は絵本や歌詞でも同じだった。読むと気持ちが解きほぐされる。もし谷川俊太郎という詩人がいなかったら、私たちの世の中は今よりも窮屈になっていたのではないだろうか。
息子で音楽家の賢作さんと一緒に詩の朗読会を各地で開く時も、谷川さんはたいていTシャツなどラフな格好で登場し、気取らずに語り、読み、著書にサインをした。ただそこにいることで柔らかな雰囲気が生まれた。だから、言葉を覚えていない子どもも詩の響きだけで大笑いした。
特集記事の打ち合わせで朗読会の楽屋を訪れた時のこと。谷川さんは黙々と出来合いの弁当を食べていた。声をかけると透明なプラスチックのふたを弁当にかぶせ、傍らの賢作さんに「こちらね、今度一緒に仕事をする…」と紹介してくれた。
幅広い世代に知られる「国民的詩人」とも言える存在だが、人前ではそんなことを意識させない。まるで平仮名だけで書かれた詩のように、相手の心にすっと入っていく。それが谷川さんという人だった。
詩壇に登場してから70年余り。常に一線に立ち、言葉について考え抜いた。詩作を巡るインタビューでは「詩の言葉は人間の意識下の世界を探って取り出そうとするところがある。矛盾したもののただ中に生きるのが人間だから、詩ではそういうことを書きたい」と語った。
「いま生きているということ」。そして「みみをすます」。こういったフレーズが繰り返される作品では「手のぬくみ」「きのうのあまだれ」「ながぐつのどたどた」など日常の情景が続き、人をいとおしく思う心が浮かび上がる。
矛盾、苦悩を抱える人生であっても、今、生きていると全身で感じ、耳を澄ますこと。その尊さを伝える詩は、人々を励まし、勇気づけた。「生きる喜びや、世界の肯定の仕方を考えている」とも話した。
気になっている言葉はありますかと、谷川さんに尋ねたことがある。「気になっているのとはちょっと違いますが、『好き』という言葉を好もしく思っていて、好きな言葉は?と問われると『好き』と答えています」と返ってきた。
素朴でいて奥深い。読者に希望をもたらす。そんな詩人を私たちは失った。だが残された数々の言葉は、闇を照らす星のように今日も輝いている。谷川さんがいなければ、やはり世の中は今より窮屈だったに違いない。