富士セメントの操業を皮切りに室蘭の重化学工業化が進んだ
ものづくりの集積地に 一気に重化学工業化進む
戦後復興が過ぎた国内は、1956年からの神武景気、59~61年の岩戸景気が国内経済を高度成長期へと導いた。技術革新と合理化は産業近代化と生産性向上をもたらし、景気の合間に訪れる不況の波がありながらも、室蘭の発展にも大きな影響を与えることとなった。
高度成長期に呼応するように、室蘭でも重化学工業化が進んだ。55年の富士セメントの操業を皮切りに、日本石油精製室蘭製油所も稼働。日鋼室蘭は第2、3次合理化計画で鋼から機械の総合メーカーを目指して業績を伸ばし、富士製鉄室蘭は第3次合理化計画で鉄鋼一貫体制を進めた。
北海鋼機と室蘭製鉄化学工業が相次いで発足した。函館ドック室蘭や楢崎造船、富士工業といった企業も業績を伸ばしたほか、北海道メタリコン工業や富岡鉄工所室蘭工業が新たに進出するなど、ものづくり企業の集積地として知られるようになった。
胆振地区で見ると、神武景気が過ぎた“ナベ底景気”の影響で、58年の室蘭の工業生産額は前年比180億円減の435億円に落ち込んだが、59年には500億円台を突破。60年には666億円、61年には997億円と伸長。道内全体の2割弱を占める実績となった。鉄鋼を筆頭に石油、セメント、化学工業の進出などの効果が顕著に表れた。
工場誘致や合理化促進の条例を制定したことも後押しした。工業誘致条例の適用により11社が進出。合理化促進では多くの企業が機械の貸し付けを受けており、57~62年度で158台に上った。
好調な企業業績を背景に、室蘭港もにわかに忙しくなった。貨物の取扱量は61、62年に1630万トン台だったが、63年に1725万トンを記録。以後、1800万トン台を推移。66年には2千万トンを突破。70年には2459万トンに達した。この間、入港船舶数も比例して増加。外国貿易船の入港実績は道内1位となった。
産業近代化は耐久消費財や割賦販売といった消費革命を日常生活に定着させた。自由経済復活の象徴ともいえた割賦制度はすでに市内専門店会で行われていたが、朝鮮戦争後の経済不況を迎えて市民の間で“1世帯1通帳”というペースで普及した。
神武、岩戸景気と進むにつれて、環境整備も急ピッチで進められた。商店街振興の中で「急務である」と位置付けられたのは浜町アーケード。室蘭中央銀座商店街振興組合の設立で法人格所有をクリア。防火改修などを進め、全長292メートルの近代式アーケードが完成。69年7月19日に落成式を迎えた。同じ浜町の一角にあるぎんやデパートが完成したのもこの頃。
70年の市内の人口は16万2千人。終戦直後の調査から5万人増加。構成比は中心部だった蘭西から、徐々に蘭東に移っていることが特徴。68年に中央市場が日の出町に開設されて蘭西の卸売りが移動したことや、車社会の到来で駐車場を確保できる蘭東地区に居を移したことが要因。土地区画整理とともに高度成長期を迎えたことで、スーパーや生協、高層住宅、飲食店、特に中島エリアへの進出が一層顕著になっていった。
好況の中で経済成長を続け、国民総生産(GNP)は米国に次ぎ2位となり、戦後20年超で経済大国の仲間入りを果たした。経済の波には浮き沈みがあり、その都度室蘭は乗り越えてきたが、70年代からの石油危機と世界恐慌により、かつてない危機を迎えることになる。