まちの発展を見守ってきた室蘭産業会館(2011年撮影)
駅前に待望の自前ビル 磯村翁の名冠する講堂も
磯村講堂-と聞いて、ピンとくる人は事情通か、昭和をたくましく生きてきた人か-。企業の新入社員試験会場や株主総会、結婚祝賀会などさまざまな用途で活用されてきた。物心両面で室蘭を支えた、いわば功労者。北炭、日鋼の役員を務め、室蘭中興の祖と称される磯村豊太郎の功績をたたえて名付けられた。室蘭の経済発展を見続けてきた室蘭産業会館の5階大ホールに名付けられたが、開館建設には紆余曲折があった。
室蘭商工会議所にとって、自前の拠点ビル開設は悲願だった。戦前にも建設計画があり、会議所や社交場、公会堂を兼ねる構想だったが、実現には至らず。戦後に労働会館建設計画が先行してから、ビル建設への機運が高まった。
ところが、1951年に発生した市立室蘭病院の出火により、抜本的な対策を迫られることになる。常盤町にある会議所ビルは、入院患者収容のスペースと事務室に転用されることとなった。加えて、土木現業所の庁舎が会議所の拠点ビル敷地を適地として市に要請。会議所も受け入れて明け渡すことになった。
暫定的に市役所旧庁舎に移ると同時に、室蘭駅前に独自に開館を建設することを決定した。当時の構想は、駅前広場を利用して、商工組合団体の事務所や商品陳列場、観光案内所などを有する室蘭商工経済界の革新的な機能を備える計画だった。市議会で付託された請願は、市長と会議所会頭の連名で知事や道議会議長宛てに陳情書を提出。道議会本会議で採択された。
一方、駅前広場は建設省が5階建て以上という条件を付しており、建設計画と資金計画の具体化を迫られた。市議会からも3階建て案に難色を示し、駅前にふさわしい内容にすべきという意見が大勢だった。
会議所も内部に建設委員会を設置。小委員会も含めると11回の協議と検討を重ねて、5階建て案に変更することとした。
名称は従来の商工会館から、産業経済のサービスセンターとしての位置付けとして、室蘭産業会館に改められた。
57年4月20日、業者と工事契約を結んだ。5月13日に地鎮祭を執行。着工中の5月には、南条徳男代議士と栗林徳一元会頭から、磯村翁の功績を記念する方策を考えるべきとの意向が示された。5階の大ホールを磯村講堂と名付け、入り口に胸像を設置した。
悲願のビルは一部6階建てとなり、同年12月に完成。同時に、紆余曲折を経て会議所の建設問題はここで終幕となった。
室蘭産業会館は当時の最先端ビルとして知られ、経済的隆盛を極めるまちの代名詞ともいえる建物だった。
その後、道の市町再編などがあり、2009年にむろらん広域センタービルへ移転することとなる。