平和産業や主力事業の転換などで市内の企業は活況を取り戻した
日鋼と日鉄、復興の礎に 石油各社の進出も相次ぐ
軍需産業を担った室蘭の基幹産業は、民需転換で再起を図った。「賠償指定=施設廃止」の危機が重くのしかかったが、全市一丸の運動が実を結び存続への道しるべとなった。戦前から地元経済の一翼を担ったものづくり産業も朝鮮戦争の勃発で工業生産額を大きく伸ばすなど、高度経済成長につながる時代だったともいえる。
戦後は非軍事化へ徹底的なメスが加えられ、日本製鋼所は民需生産の許可を受け、日常生活に必要な鍋や鎌、農機具の生産に加え、機関車の修理などに着手した。戦後の食糧基地となった北海道の中で、日鋼の設備と技術は大きな役割を果たす。性能と品質両面で絶対の信用を確保するとともに、終戦翌年には本格的な生産品目として農業・産業用機械、船舶部品を加えた。
民需転換の実績を積み上げる過程で、同年には賠償指定の特別経理会社となった。指定はすなわち施設の廃絶を意味しており、市内全域での存続運動が展開され、道内の業界団体も支援に回った。
日本製鉄も日鋼と同様、深刻な石炭不足が操業再開を阻む悪条件となっていた。46年から線材工場を稼働。同様に原料確保による本格的生産の早期実現に努め、コークス炉や溶鉱炉を断続的に創業した。八幡集中生産により室蘭の火は危機的な状況を迎え、賠償指定も決まり輪西存続問題が重大な局面を迎えた。
この事態に、商工経済会室蘭支部が動いた。室蘭のみならず道内全域への影響を鑑みて、業界11団体に協力を要請したのを皮切りに、札幌での産業用炭確保運動協議会や産業用炭増産全道大会などの開催へとつながった。そのかいあって、創業は47年から順次再開された。
室蘭製鉄所は自由競争時代に対処できる基盤の早期確立を方針に掲げた。室蘭は基幹工場として、線材や薄板などの製造に重点が置かれた。46年度に約3万トンだった生産高は49年度に41万6千トン、53年度には125万トンを突破。国内鉄鋼業界で重要な地位を占めた。
函館ドック室蘭製作所は船舶関係から陸上部門に切り替え再発足を図った。北海道総合開発計画の具体化に伴い、橋梁の製作架設の受注や富士製鉄の工事獲得などで活況を取り戻す。船から橋へ転じて道外のメーカーと肩を並べる存在となった。
鉄工業をはじめ、機械器具や科学、ガス・コークス、食品加工、木材製造など多くの企業が台頭したことで、工業別生産額は大幅な伸びを示した。朝鮮戦争勃発前後で比較すると、鉄鋼は49年に55億1745万6千円だったが、51年には246億4608万円と4倍超に達した。造船は4億1650万2千円で4倍弱、木製品は1億301万8千円で3倍弱と、各分野で大幅な飛躍を遂げたことが分かる。
加えて、石油の配給統制が廃止され、元売り各社の支店や特約店が室蘭に進出。自動車・家庭用燃料としての石油需要は年々増加しており、本輪西を中心に各社が相次いでタンクを建設。戦後10年ほどで60を超えた。北海道・東北最大の石油基地として知られるようになったのは、当然の成り行きだった。