拓殖計画で開発された戦後の室蘭港
復興へ活況、貿易船次々 ふ頭施設整備も動き出す
終戦とともに封鎖された港を早急に再開させることが、室蘭再生の鍵だった。
生産が途絶えて荷動きはなく、空襲を受けて撃沈された船舶が多く機雷の危険性もあったため、連合国側の出入りも容易ではなかった。陸送も困難を極めたが、沈没船撤去と陳情活動を重ねて、終戦からちょうど2年となる1947年8月15日に開港が許可された。貿易再開第1便はリン鉱石を積載した船舶。時期を同じくして、復興や開発を目的に次々と団体が設立されていった。
室蘭港湾振興会は室蘭商工会議所が事務局を担い同年12月に発足した。関係する港湾事業者や市などで構成。築港用石材の払い下げや荷役用資材の割り当て、倉庫建設の促進、海陸運賃の調整などに携わった。
室蘭港はそれまでの工業一辺倒から、商工港への転換という将来展望に立った上で、早急に公共ふ頭施設の整備・充実を目指す必要性に迫られていた。唯一の公共ふ頭である第2期拓計ふ頭(中央ふ頭)の築設は終戦に伴い打ち切られた。計画のわずか13%にとどまっていたことから、全市的な運動で再開にこぎつけた。国立倉庫や市営1、2号倉庫に加えて臨港鉄道の敷設が53年5月までに完成。貿易船も相次いで寄港するようになり、国鉄の海陸連絡施設として戦時中に計画がストップしていた石炭荷役施設の増強が、ようやく進められる運びとなった。
室蘭胆振地方総合開発期成同盟会や市の三セクである室蘭開発が誕生したのもこの頃。
特に戦後統制を受けてきた海運業界の発展も、室蘭再生の道しるべとなった。
終戦と同時に海運業界もGHQの管理下に置かれたが、船舶の国家使用は完全に廃止。栗林商船と日本郵船、大阪商船、三井船舶、川崎汽船5社が室蘭港の再建を担うこととなった。
5社は室蘭船主会を結成。単純な親睦団体ではなく、港湾行政の交渉団体機関として港湾整備に存在感を発揮。その後、出先機関の進出で会員は11社となり、船主協会へと改称。戦時統制で発足した室蘭港運や室蘭石炭港運なども再編成された。
室蘭港での石炭は、戦時中の最盛期(42年度)に約325万トンだった取扱量が、終戦翌年の46年度には約64万トンまで激減した。港湾業界が再整備され、48年度以降は100万トン台に回復。51年度に252万トン、53年度に238万トンとなり、トランスポーター(ガントリークレーン)が1基増設されるなど技術面の改良が進み、56年度には356万トンを記録した。
民間貿易の再開許可も48年に下りたことで、外国貿易額は同年に3億9869万円で前年の6倍強に飛躍。50年には戦前の水準に戻った。
貿易再開のための体制づくりとして、室蘭商工会議所や港湾振興会が中心となり室蘭貿易協会が設立された。海外への石炭や鉄鋼の輸出が伸びて、道内屈指の輸出入港としての基盤が出来上がっていった。