各所から動員されて工場での生産が行われていた
重工業化進む港湾都市 大戦勃発、兵器需要増す
1914年に第1次世界大戦が勃発すると、産業界は軍需産業を中心に活気付いた。英国アームストロング、ビッカース両社と北炭による共同事業として07年に誕生していた日本製鋼所も、兵器工場として砲身や弾丸、艦船用品などの需要に追われることとなった。
国産航空機エンジンの第1号で、日本遺産・炭鉄港の構成文化財となっている100馬力発動機は、18年に陸軍東京工廠(こうしょう)から受注した。国内初の制式航空発動機を完成に導き、高い技術力を内外に知らしめると、第1次大戦時に英国軍が近代戦兵器として使用して以降、世界の注目と開発競争の流れを生んだ戦車製造にも着手。陸軍大阪工廠との共同作業で試作品を完成。改修を加えた後に本格生産が始まり、31年の満州事変勃発当初は主力として活躍した。
戦局の拡大と長期化により、1万トン水圧鍛錬機や特殊鋼板圧延工場などを増設。受注増に伴い各所から従業員を集めると、社宅や独身寮などを用意して最盛時に備えた。
北炭専務・井上角五郎の悲願として立ち上がった輪西製鉄所も、第1次世界大戦での鉄の需要増加に伴い、溶鉱炉を相次いで増設。民間トップの生産高を上げるに至る。この間、組織変更があり、17年1月、三井鉱山、三井合名、北炭の共同出資により、北海道製鉄が発足。輪西工場は支社となった。
戦後不況のあおりを受けて、日本製鋼所との合併議論が加速。19年に製鉄所は日本製鋼所室蘭工業所製鉄部となり、鉄鋼一貫作業の工場として発足した。
陸海軍からの兵器受注で難局を打開していたが、ワシントン軍縮会議の調印に伴い情勢は一変。兵器類の新規注文はほぼ途絶えた。翌年の関東大震災で大ダメージを受けたことも重なり、事業の合理化を迫られた。
24年2月、三井鉱山と北炭、日本製鋼所で輪西製鉄組合が発足。製鉄、採鉱両部門は組合に委託されることになる。日鋼所有の工場施設や土地などは無償貸与されており、製品販売も担うこととなった。
ところが、昭和を迎えた後、未曽有の恐慌に見舞われ、採算を取るのが困難な状況となってきた。31年に再び分離独立して新会社・輪西製鉄が誕生した。
再び設備や鉱山なども譲り受けて発足したが、新会社の設立総会開催日である同年9月18日は、満州事変の契機となる柳条湖事件が起きた日。輪西製鉄の発足は起死回生策だったが、皮肉にも鉄鋼需要は再度急騰。市場は好況が続いた。
33年には官民製鉄合同法により、日本製鉄が誕生。輪西の製鉄工場は、日本製鉄輪西製鉄所となった。今につながる基幹産業は、国内外の情勢に左右されながらも、文字通り戦時下を歩んでいくことになる。