建設が進められる日本製鋼所
製鋼所と製鉄所、産声 井上の悲願ついに実る
1894年に営業を開始した室蘭鉄道。室蘭停車場での乗客、貨物は順調に推移した。利用客は同年7926人で、3年後の97年は2万人超となった。小荷物や貨物も同様に右肩上がり。待ち続けた鉄路開設の効果を実感する営業実績となった。
仏坂下に開設された室蘭停車場周辺は埋め立てが徐々に進められて、貨物専用駅などが整備された。停車場は旅客専用駅となり、1912年に海岸町へ新築移転された。現在の旧室蘭駅舎横には、昭和期に活躍した蒸気機関車D51が展示されている。駅舎が現在地に移転するのは、もう少し先の話。
全国各地で官民双方の鉄路延長、新設が盛んになり、鉄道の重要性が増していた。こうした社会情勢を背景に、1906年に鉄道国有法案が国会で可決された。北海道炭鉱鉄道(北炭)も例に漏れず、鉄道部門は北海道鉄道作業局出張所が経営することとなった。北炭が社名を北海道炭鉱汽船に変更し、本社を岩見沢から室蘭に移した時期もこの頃。
国有化の前年、05年8月に終わった日露戦争を背景に、鉄鋼事業の民営化が叫ばれるようになった。兵器や艦船はすべて外国に依存しており、自力での軍備力整備を推進する声が高まっていた。
かねて製鉄民営論を訴えていたのが、後の北炭専務で当時理事の井上角五郎。国有化に伴い、鉄道は3千万円ほど(現在の金額で1177億円超)で国に売却。諸経費を差し引いても1070万円ほどの利益があった。
06年の臨時株主総会で、井上は製鉄所建設の構想を打ち出した。噴火湾の砂鉄を主原料として、室蘭を建設地の第一候補に掲げた。伊藤博文、松方正義といった有力者を通し、海軍元老山本権兵衛、海軍大臣斉藤実、呉鎮守府司令長官山内万寿治に協力を要請した。
現地を視察した山内からは「急を要するのは兵器」との助言もあり、製鉄から製鋼、兵器生産へと転換。英国アームストロング、ビッカース両社と北炭による共同事業として、07年に日本製鋼所が誕生した。
先に製鋼所が産声を上げたが、製鉄所に懸ける井上の熱意は冷めていなかった。自社の石炭や噴火湾沿岸の砂鉄などを用いて研究を進め、輪西村の一角で製鉄所の建設が着工された。基礎工事に困難を伴ったが、09年6月に完成。7月に火入れ式が行われ、北炭による製鉄兼営という形で、井上の悲願はついに達成された。