室蘭鉄道開設に密接に関わった北炭本社
空知と結ぶ鉄路建設 構想から20年の歳月経て
室蘭製鉄業の祖と称される井上角五郎は、北炭=北海道炭鉱鉄道(後に北海道炭鉱汽船に社名変更)の元専務。1886年、北海道庁の設置に伴い三県一局時代が終わると同時に、北炭創設が室蘭鉄道建設の動きと密接に関わっていく。
開拓使大書記官、屯田兵事務局長を歴任した後、民間会社で実業界に身を寄せていた堀基。同年2月、道庁の岩村通俊長官の誘いを受けて、道庁理事官として舞い戻り、その後鉄道事業を所管する第二部長を務めることになる。
民間資本の導入、民間移行を進める中で、官営幌内鉄道の運輸請負は、元炭坑鉄道事務所長・村田堤らが創設した北有社が担うはずだった。
堀は道庁に加えて宮内省などにも根回しを行い、払い下げに成功することとなる。明治十四年の政変のきっかけともなった開拓使官有物払い下げ事件があったことで、払い下げそのものへの世論の厳しい目も強かった。堀は、日刊新聞・時事新報主幹の福沢諭吉からも協力を得るなど、用意周到に下地をならした。
89年、複数回の発起人会を経て、8月3日に社名を北海道炭鉱鉄道に決定。同9日には会社設立と幌内炭鉱払い下げなどの請願を政府に提出した。11月19日、前日に政府が北炭に室蘭・-空知太(滝川)間の鉄道などの営業を許可したことを受けて、創立総会が開催されて新会社が設立された。手宮にあった北有社社屋を仮本社として、付属物をすべて引き継いだ状態で12月11日に営業を開始した。
事業内容は、炭坑経営に加えて、室蘭-空知太間の鉄道建設など。幌内炭鉱、官営鉄道の払い下げと同時に、室蘭線など新設鉄道の資本に対して払い込みから工事落成まで年五分の利子補給、新設道路用地とその付属地の国税免除などの特権も与えられた。これについては、帝国議会でも糾弾されて、政争の焦点ともなった。
ともあれ、室蘭鉄道の建設は現実のものとなった。開拓使が構想を打ち立ててから20年近くが過ぎており、苦境に立たされた室蘭経済に、数年かけてにぎわいを生み出していくことになる。
(敬称略)