室蘭方面へと進む線路。さまざまな思いが込められて今につながる
鉄路建設へ有志奮起 建議書提出で世論高まる
炭鉄港。北海道の近代化を支えた室蘭の鉄鋼と空知の石炭、小樽の港湾をつなぐ近代化産業遺跡群は、2019年5月に日本遺産に認定された。今でこそ構成文化財を巡るツアー開催やポストカードの配布といった企画が盛んだが、認定の130年ほど前の明治期には、室蘭存亡を懸けた並々ならぬ熱意と駆け引きが繰り広げられていた。
北海道開発は炭鉱と表裏一体の関係。1879年に、幌内から江別、札幌を通り手宮(小樽)まで連なる官営幌内鉄道の建設が決定した。当時の貴重なエネルギー源である石炭。運搬する鉄路は、日本海側、太平側の2案があった。太平側は室蘭まで鉄路を敷くルートだったが、最終的には手宮が選ばれた。
ただ、前回掲載の中で述べた不況にあえぐ室蘭にとり、鉄路建設は悲願ともいえた。国防上の安全性や海産物輸出港としての側面から、室蘭への鉄道開通の機運に向けた世論が形成されていった。
開拓使時代が終わり、函館県・札幌県・根室県の三県と北海道事業管理局(農商務省の部局)が設置されて、三県一局時代が始まった。82年、札幌区長兼石狩外七郡長・山崎清躬は、札幌県の施策について意見書を札幌県令・調所広丈に申し出た。
「今や幌内炭坑開採御着手の時に当っては室蘭鉄道建築は、一日も緩すべからざる急務。公私運輸の便を得るのみならず、沿路の村市自ら人民輻輳し、拓地殖民上の一大広益を得る。一日も速やかに御起工あらんことを切望する」
地元でも有志による促進運動が盛り上がり、工部卿・佐々木高行宛てに建議書を提出した。現在に例えるなら、現職大臣への要望書提出。当時27歳の青年が署名に名を連ねていたことから、多世代に危機感が広がっていた状況がうかがえる。
建議書は全16項目。熱い思いがしたためられた。すぐには実を結ばなかったが、室蘭-岩見沢間の測量につながった。
住民の熱意で建設計画は具体化していったが、官営による幌内炭山と炭坑鉄道の経営難もあり、実現の見通しは立っていなかった。多額の開発費が投入されており、収支が合わなくなると、囚人労働で石炭を採掘するという苦肉の策も取ったが、炭坑経営は極めて困難な状況だった。別路線の鉄道も財源が足りず中止に追い込まれた。
官営による室蘭鉄道建設は再度厳しい状況に追い込まれたが、民営移管で窮地を脱することになる。今の室蘭の基幹産業の礎となる北海道炭鉱鉄道(北炭)の創設だ。