かつての札幌通りである市道室蘭中央通線沿い
「鉄道建設論」が浮上 苦しい経済の起死回生策
室蘭商工会議所の誕生を紹介する前に、明治以降の室蘭市内商業、経済界の足跡を振り返る。
かつて札幌本道(札幌通り)と呼ばれる道が、市内にあった。現在の中央町小公園から緑町のヤマコしらかわ近辺まで続く市道室蘭中央通線沿い。札幌通りを散策する歴史散歩ツアーが開かれており、市民の関心も高い。
明治初期、道内経済の中心地であった函館と、開拓使の本庁が置かれた札幌を結ぶ道内初の幹線道路の一部として整備された。
1872年6月、元室蘭(現在の崎守町)に海関所の設置が布告されたことを開港の起源とする室蘭港。同年7月、トキカラモイ(現在の緑町・海岸町3丁目付近)に木造の仮桟橋が完成、10月から森との連絡航路が始まるのと同時に、室蘭と札幌を結ぶ工事が本格的に始まった。
道路が開けると、飲食店や雑貨店、木賃宿、民家などが立ち並んだ。新室蘭市史によると、周辺には109戸が住み着いた。当時、開拓使は千戸を目標に掲げており、商店の誘致策として、手元金の貸し付けや家具などを払い下げた。ただ、商圏が限られたことなどから、商業者の生活は深刻化。開拓使が緊縮政策に方針転換したことで、不況は深刻さが増した。
その後、西南戦争と関連した内乱で、政府は戦費を補うために不換紙幣を乱発。紙幣価値が下落して全国的な不況に見舞われた。室蘭の商業者も借り入れ分の返済などに追われて、資金を出し合って互いに融通する無尽講、頼母子講(たのもしこう)に頼らざるを得ない状況が続いた。 往来する旅客も激減して、経営困難は尾を引く中、81年9月4日、北海道巡幸で明治天皇が室蘭に到着した。現在の旧室蘭駅舎近くにあった山中旅館に宿泊した。随行人は300人。当時の室蘭と絵鞆村は132戸で、民家も含めて分散して滞在しており、不況下の室蘭にわずかながらも活気を与える出来事となった。
その後、石炭産地である幌内から港のある小樽へ運ぶ輸送用の官営幌内鉄道が開通した。ますます持って人や物が小樽を経由。室蘭は先を越された形になり、開拓使時代末期から三県(函館県、札幌県、根室県)一局時代にかけて深刻な不況が広がっていた。起死回生の策として、鉄道建設論が浮上するのは、自明の理だった。