室蘭商工会議所の発足を伝える1946年10月3日の室蘭民報
終戦から立ち上がる、民主的な団体へ切り替え
空襲と艦砲射撃で怒濤の終戦を迎えた室蘭。食糧難と工場休業、企業の人員整理など経済活動の低迷は明白。加えて、進駐軍の命令・要求への対応が重なり復活への足かせとなった。混迷極まる中、喫緊の課題は遅欠配続く食糧問題の解決と基幹工場の存続、室蘭港の早期始動。そして、戦時体制の商工経済会からの脱却だった。
戦争の混乱収束と経済再建の両軸に対して、導き出された答えは民主的な商業団体への機構切り替え。いわゆる商工会議所の復活だ。
終戦翌年に北海道商工経済会が解散すると、道内各地で社団法人の商工会議所が設立された。室蘭支部も商工業者の意向を集約して、業者の自主的運営による組織を設立することとなった。
室蘭商工会議所設立準備委員会が設置され、臼井邨三郎支部長を代表とした設立発起人(21人)を選出。1946年9月7日付の室蘭民報紙面で、商工業者加入の呼びかけを行た。「室蘭商工会議所設立に就て」と題して「商工業の世論を結集してその実行に努めて、緊密なる連絡協力によって商工業者の権益を保護増進し、総合的に産業の発達を図る」として、創立総会の案内に加えて商工業再建と日本経済進展への協力を訴えている。
呼びかけが功を奏し、法人94、個人203の会員を取りまとめた。創立総会を開き、同年11月22日に認可を得て室蘭商工会議所が復活した。臼井支部長が会頭となり、常設委員会は8。部会は15の陣容でスタートした。
戦後統制の緩和から自由経済への復帰に向けた足取りは早まった。メーカーからの物資が統制期間を通して配給する流れに変わり、メーカー-問屋-小売店へと変わった。戦後爆発的に横行した“ヤミ商人”も自然消滅。小売店の増加は自由競争の時代の到来を告げ、消費者は選択購入の傾向を強めた。
いち早く商業界で地盤を築いたのはデパート。室蘭市の丸井今井などが加わり、北海道デパート協会の売り上げは大幅な伸びを見せた。
ただ、各地と同様、戦後に発足した商工会議所は、経済活動が混迷を続けていた時期にあり、完璧ではない基盤の下での運営を余儀なくされていたことも事実。
戦後は社団法人としての活動だったが、50年に商工会議所法が交付された。GHQの強い示唆もあり、任意加入の会員制度が根幹で、会費依存の財政は大きな制約を受けていた。朝鮮戦争やGHQによる対日政策の展開などにより、すぐに戦後2度目の商工会議所法が制定されることになる。