
渡辺恒雄さん(読売新聞社提供)
読売新聞グループ本社代表取締役主筆で、プロ野球巨人のオーナーや日本新聞協会会長も務めた渡辺恒雄(わたなべ・つねお)さんが19日午前2時、肺炎のため東京都の病院で死去した。98歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は長男・睦さん。後日、お別れの会を開く。
東大文学部哲学科卒業後の1950年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長、副社長・主筆などを経て91年、社長・主筆に就いた。2002年、読売新聞社の組織改革に伴いグループ本社の社長・主筆に就任した。04年1月から会長・主筆となり、16年から現職。
故中曽根康弘元首相とは、若手政治家の時代から長年にわたり深い関係を築き、政界に影響力を持った。自民党と民主党(当時)の「大連立」騒動では、仕掛け人の一人とされた。20年10月の中曽根氏の内閣・自民党合同葬では「今あなたのおられる星輝く天界で、近くお目にかかるのを楽しみにしております」との追悼の辞を贈った。
94年、読売新聞は憲法改正試案を発表。同紙は00、04年にも試案を出し、17年5月の中曽根氏の白寿を祝う会でも改憲の必要性を訴えた。
故安倍晋三元首相とも個別に会食したり巨人の試合を観戦したりする間柄。特定秘密保護法に関し議論する「情報保全諮問会議」の座長を14~16年に務めた。
巨人のオーナーには96年に就任。ドラフト改革や新リーグ構想などでプロ野球界の在り方に積極的に発言した。04年の球界再編問題で選手会への対応を巡り「たかが選手」と話し、波紋を広げた。11年には当時球団代表の清武英利氏が、球団会長の立場にあった渡辺さんがコーチ人事への不当介入などで球団を私物化していると記者会見で批判。解任された清武氏との法廷闘争に発展した。
91~05年に横綱審議委員会委員を務め、01年から03年までは委員長。99年から03年には日本新聞協会会長も歴任した。週刊誌などでは「ナベツネ」とも呼ばれた。
◆―― 新聞社の枠超え存在感 学生時代は政治活動に傾倒
渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆は「ナベツネ」の呼び名で広く知られ、新聞社の経営トップの枠を超えた影響力を持つ存在だった。学生時代は哲学を追究し、終戦直後は共産党で政治運動にも取り組んだ。
渡辺さんの著書などによると、幼少期に父と姉を病気で亡くした。死に向き合うため哲学を志すようになり東大に進学。在学中に召集された。
戦後は、天皇制や軍隊に反対する立場から日本共産党に入党。東大内の集団を率いるリーダーの一人として頭角を現したが、個人の主体性より党の規律が優先されることに疑問を感じ党と対立、除名処分となった。優秀な同級生を目の当たりにして哲学研究者の道を断念した後、新聞記者になった。
記者時代は政治部で自民党を長く担当した。特に大野伴睦、中曽根康弘両氏とは自他共に認める蜜月関係を築いた。特ダネ記者として鳴らし、1962年には日韓国交正常化交渉の過程で交わされた秘密覚書「金・大平メモ」をスクープした。
「言論機関としてタブーに挑戦し、読者に問題提起する責任がある」。社長・主筆となると、国際情勢に合わせ憲法を見直すべきだとして憲法問題調査会を設置。前文や9条など憲法全体に検討を加えた「憲法改正試案」を94年に公表し、大きな反響を呼んだ。
プロ野球巨人のオーナーも務めたが「野球は素人。学生時代にやったことがないんだから」と言ってはばからなかった。2004年の球界再編問題では、話し合いを求める選手会側について「分をわきまえないといかん。たかが選手が」と発言して物議を醸した。
前立腺がんが見つかり、1998年に前立腺の全摘手術を受けた。2017年10月には、妻・篤子さん=当時(87)=を肝硬変で亡くした。
◆―― 首相の靖国参拝に反対 伝え続けた戦争体験
渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆は、靖国神社が東京裁判でA級戦犯とされた東条英機元首相らを合祀したことを批判し、首相の参拝に強く反対したことでも知られた。「日本軍は本当にひどいものだったということを言い伝え、書き残しておかなければいけない」。これまで雑誌への寄稿や対談などで自らの戦争体験を積極的に発言していた。
渡辺さんは19歳のとき、敗戦が確実視される中で徴兵された。理由もなく毎日顔を殴られたという。戦争を拡大し、特攻や玉砕といった無謀な作戦で多くの命を奪った軍幹部を「加害者」と批判した。
連合国による東京裁判の判決結果だけでなく「日本国民が自らの手で、戦争の責任をどう認識するか」。その材料を提供するため、2005年、社内に戦争責任検証委員会を設置。日本政府や軍指導者の責任の有無や、戦争の原因を検証するキャンペーンを指揮した。
靖国神社の成り立ちも問題視し、14年には月刊誌「文芸春秋」に、靖国が近代的な宗教施設でも、歴史的合理性を持つ追悼施設でもないとする記事を寄稿。千鳥ケ淵戦没者墓苑を無名戦没者の墓と認証し、靖国に代わる国民的な慰霊碑とするのも一つの方法だと指摘した。当時の安倍晋三首相の公式参拝にも強く反対した。
過去の戦争を美化、正当化する主張が国内に目立ってきたと嘆き、戦争体験者がいなくなってしまうことへの危機感をにじませていた。
◆―― 巨大部数で政治に影響力 独裁自認、恐るべき率直さ
新聞とは何か。戦後民主主義とは何か。渡辺恒雄さんの訃報を聞いて、私の胸にとっさに浮かんだのは素朴な疑問だった。
渡辺さんが戦後マスコミ界を代表する存在だったのは間違いない。1991年の社長就任後は「1千万部」突破の目標を達成。94年に「読売憲法改正試案」を発表するなど巨大な発行部数をバックに政治や世論に大きな影響を与え続けた。
しかし社論に反する記事掲載を許さず、異を唱える者は徹底的に排除した。かつて「才能のあるやつなんか邪魔だ。俺にとっちゃ、俺の言うことに忠実に従うやつだけが優秀な社員だ」と漏らしたことも。晩年は「俺は最後の独裁者だ」と言ってはばからなかった。
20年以上前に渡辺さんにロングインタビューをしたことがある。私がぶしつけな質問をするたび、彼は「失礼な!」と言って怒った。が、話題を他に転じると、すぐ機嫌を直した。もともとサービス精神が旺盛なのだ。ちゃめっ気があって、あけすけで、不遜な物言いがよく似合った。最後に彼が漏らした言葉が耳にこびりついている。
「世の中を思う方向にもっていこうとしても力がなきゃできないんだ。俺には幸か不幸か1千万部ある。それで総理を動かせる。政党勢力も思いのまま、所得税や法人税の引き下げも読売が書いた通りになる。こんなうれしいことはないわね」
恐ろしいほどの率直さだった。「国家を監視する新聞」から「国家と一体の新聞」への転換。そこには憲法の自由・平等・絶対平和の理念が息づく余地はない。発言からは、多様な言論と権力のチェックが新聞の生命だという意識はみじんも感じられなかった。
戦中はカントを読み、軍国主義を憎む哲学青年だった。東大入学後に敗戦を迎え、共産党に入ったが、個の自由より組織の統制を重んじる党に反発して脱党した。
政治記者としては、自民党の大野伴睦副総裁の番記者として頭角を現した。抜群の取材力、筆力で政治報道のエースに。1958年の「派閥―保守党の解剖」(弘文堂刊)は、自民党内でせめぎ合う派閥に初めて分析のメスを入れ、長く「政治記者のバイブル」とも言われた。
一方、読売社内では激しい派閥抗争を繰り広げた。79年、論説委員長に抜てきされ、右傾化路線を徹底して推進した。
大阪読売で、社会部長として反戦・反差別の紙面作りをしていた故・黒田清さんはこうした方針と対立することが多くなり、退社を余儀なくされた。黒田さんは病死する前、私に語った。「読売は権力にすり寄ってるなんてもんじゃない。権力者が新聞を作ってるんだ。そんなのジャーナリズムじゃないよ」
新聞とは何か。戦後民主主義とは何か。大きな足跡と疑問を残し、「最後の独裁者」を自認するリーダーが逝った。